スピッツ大学

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56時限目:漣

【漣】


漣

 

■アルバム『さざなみCD』に収録されている曲です。タイトルの読み方は、”さざなみ”です。ご覧のとおり、一応は表題曲になっています。スピッツの表題曲は、必ずと言っても過言ではないほど名曲で、この曲も言わずもがな、名曲、いや、超名曲です。

 

個人的ランキングは、堂々の195曲中2位でした。ちなみに、1位は【けもの道】でしたが、これはもう選ぶのが実に心苦しかったです。きっと、底抜けに気合や元気をもらいたい時は、【けもの道】を選ぶだろうし、ちょっと立ち止まって、落ち着きたい、感動したいときは、【漣】を選ぶだろうってだけですね。

 

ランキングをソートした時の気分が前者だったってだけなので、本当は両者が同率で1位です。ということで【漣】は、スピッツの中で一番好きな曲、と言っておきます

 


■別記事にて話しましたが、この【漣】という曲が、現在進行形で書き続けている、スピッツの曲を全曲を紹介・解説するという、こういうブログを作ろうと思い立ったきっかけになりました。

 

色んな人に、スピッツの曲を知ってほしい…というのは後付けで、本音としては、自分が喋りたい、と思っただけなんです。自分が、スピッツのことをこんなに好きなんだと、その証を残すためでもあります。

 

まぁ、この辺りは、別記事に任せることとします。よかったら↓
http://itukamitaniji.hatenablog.com/entry/2015/10/13/003155

 


■まず、この歌は、本当に音のバランスとか、楽器ごとのアレンジとかが抜群だなって思います。ギターの音も、ドラムの音も、ベースの音も、本当に心地よく、隙間を縫うように、何処にも隙間を残さないように、収まるところに収まっているっていう印象です。

 

そして、そんな抜群にうまい演奏に、草野さんの歌声が乗っかって、どこまでも届いていくような、静かな”漣”となって、心の中に染みわたっていきます。

 


そして、この曲はLIVEバージョンが最高に良いんです。その模様は、ライブDVD『JAMBOREE TOUR 2009 ~さざなみOTRカスタム at さいたまスーパーアリーナ~』に収録されています。

 

そのLIVEでの【漣】が本当に良いんです。特に、クージーのフルートとコーラスが最高に心地いいんです。これを見れば、クージーは、本当にスピッツには欠かせない存在で、むしろ、クージー込みでスピッツだなって思えてきます。一番大好きな、LIVE映像になりました。

 


■続いて、歌詞の解釈です。

 

この歌に関しては、最初聴いていた頃から抱いていたイメージはずっと、”想い人に会いに行く、その決意を歌った歌”というものでした。その相手が、恋人なのか、はたまたずっと思いを寄せていた相手だったのか、元恋人だったのか、それは分かりませんが、とにかく、何か決意をして、その相手に会いに行くというイメージです。想いを告げるため、とかでしょうか。

 


こぼれて落ちた 小さな命もう一度
翼は無いけど 海山超えて君に会うのよ

 

ここのフレーズを読んで、先述のような決意を感じ取りました。並みじゃない決意を持って、想い人に会いに行くんだと。”海山超えて”だから、おそらく、遠くにいるのでしょう。

 


■しかし、しかしですよ。冷静になって、よくよくこのサビのフレーズを読んでいるうちに、ある時、はっと気づいたわけです。

 


これは、紛れもない、”入水自殺”を示唆した表現なのではないか、と。

 


正確には、ここからは”入水”ということは判断できないですが、とにかく、高いところから、飛び降りている描写なんだと、僕は思うようになったのです。

 

”こぼれて落ちた 小さな命”…文字通り、命が落ちていく=高いところから飛び降りて、自殺を計っている。
”翼はないけれど”…翼はないので、当然、落ちていく。
”君に会うのよ”…自分も死んで、あの世で、君に会う。

 

こういう解釈に繋がります。つまり、最初の解釈のように、想い人に会いに行くとしても、その場所は、”あの世”だったということです。

 


2番のサビでは、”予想外のジャンプ”というフレーズが出てきますね。これも、実は同じように、飛び降りることを示唆している言葉だったということになるのでしょう。

 

”現は見つつ 夢から覚めず”というフレーズも、現=現実、つまり、君が死んだという現実、夢=君が生きているという妄想、だとすると、君が死んだことを、まだ現実のこととして認めることができない、ということになります。

 


そして、そういう流れがあって、Cメロの”キラめくさざ波 真下に感じてる”というフレーズで、この文章を文字通り単純に捉えて、あ、この人は海を見下ろしているんだな、という解釈につながり、”入水自殺”(海に飛び込んで自殺する)という構図が完成しました。

 


■そして、僕個人的には、自分の中で”死”の解釈を決定づけた、一番重要な表現だと思っていますが、2番のBメロにこんなフレーズがあります。

 


街は今日も眩しいよ 月が霞むほど

 

この中の、”月が霞む”という表現に注目しました。

 

草野さんはどうやら、丸い物に、”死”をイメージしているらしいのです…例えば、”あわ”、”飛行船”、”月”…あれ、もっとあるはずなんですが、急に思い出そうとすると、案外出てこないものですね…まぁ、とにかく、丸い物にです。

 

とすると、ここに出てくる”月”は、”死”の象徴であると言えます。そして、それが”霞む”とは、つまり”死が霞む”=例えば、死ぬことへの恐れがなくなった、つまり死を覚悟した、というつながりになるわけです。

 


■さすがに拡大解釈かな、とも思ったこともありましたが、悲しいけど、辻褄が色々と合うんです。

 

僕は、この解釈に気付いた時に、本当にはっとしました。別記事でも書きましたが、全身の毛が逆立って鳥肌がビンビンに立ちました。なんか、気付いてはいけないことに、気付いたような気がしたからです。

 

ずっと、恋人か何かに会いに行く…言ってみたら、ほほえましい歌だと思っていました。しかしいつからか、そこに潜む、”死”のイメージにとり憑かれてしまったのです。

 

そう思いながら聴いてみると、この歌がどんなに悲しい歌であるか、本当に涙なしには聴けなくなってしまいます…まぁ実際には泣きませんが、心は、いつもぎゅっとしめつけられています。

 

でもね、不思議なんです。何でか、この歌はハッピーエンドだと思ってしまうのです。人が死んでハッピーエンド、とは何とも不謹慎であるか、とも思いますが、きっとこの2人は”あの世”で会えたのだと思っています。

 


…しかし、やはり解釈に正解はなく、あなた次第です、と言っておくしかありません。どう思うかは、あなた次第です。

 


■ちなみに。

 

よく耳に残るフレーズの、サビの”君に会うのよ”、の、”のよ”の部分。とある動画サイトでも、ある種ネタのようになっていて、”のよのよ動画”なんてタグも付けられるほどですが。

 

あの語尾の”のよ”は、どうやら、ジャニーズの山Pの「抱いてセニョリータ」という歌の影響で生まれたらしいですね。そう言えば一時期流行りました、悔しいけど覚えています。

 

今回調べていて、初めて知りました。「抱いてセニョリータ」の歌詞で、”じれったいのよ”という部分があって、そこが耳に残って、【漣】の歌詞に取り入れたそうです。

 

なんでしょう、先にスギちゃんが流行っていたら、”君に会うんだぜ”にでもなっていたのでしょうか、笑。