スピッツ大学

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146時限目:ビー玉

【ビー玉】

 

■アルバム『スピッツ』と、それと同時に発売されたシングル『ヒバリのこころ』のカップリング曲として、両方に収録されています。個人的ランキング、195曲中169位でした…あんまり印象には残っていませんでした…。

 

初期の謎曲のひとつですよね。タイトルが【ビー玉】と、割とかわいらしい名前で、いきなり軽快なリズムで「ラーンラララーンラララーンラララーンラーン」と始まったかと思えば、そのあと”おまえの最期を見てやる”なんて不吉なことを歌い出しますからね。

 


■このブログでも本当に何度も言ってきましたが、草野マサムネさんの詩のテーマは、”死とセックス”というものです。

 

”セックス”とは、”性”=”生”として、つまりは命や人間の根源を表しているもので、一方の”死”とは、その言葉通り人生の終わりを表しているものです。よって、”死とセックス”で、人生や命の”始まりから終わりまで”を表わしていると言えると思います。

 


さらに、その”死とセックス”についてですが、草野さんは、丸い物に”死”のイメージを持っているそうなのです…というより、歌詞の中に丸い物が出てくると、何となく”死”のイメージを感じます。

 

丸い物…例えば何がありますかねぇ、月、星(これも一応丸いんですかね)、あわ、飛行船、くす玉などでしょうか。ともすると、その中に、”ビー玉”も含まれるのではないでしょうか。

 

ちなみに、”セックス”のイメージの象徴は、とがっている物だそうです。

 


特に、”死とセックス”のテーマは、初期の曲に特に根強くあると思います。そしてそれが、色んな言葉や表現に隠されていて、読み解くことが困難なことも多いのです。

 

それは同時に、歌詞を読んでいくことへの楽しさへと繋がって、引いてはこのブログの存在理由でもあるんですけどね。何となく、国語の問題を解いているような感覚、あるいは、暗号とか謎々でも解いている感覚になることもあります。

 


■ということで、【ビー玉】の個人的な解釈です。

 


まず、先ほども少し書きましたが、この曲の始まりの歌詞は、こんな感じになっています。

 


おまえの最期を見てやる
柔らかな毛布にくるまって
ゆっくりうかんだら 涙の星になった

 

”おまえの最期を見てやる”という、フレーズからは、普通に考えてやっぱり、”死”のイメージを受けとりますよね。”最期”ですからね、何かが終わる瞬間と考えることが自然で、それに”おまえ”が引っ付いているわけですから。

 


続く歌詞も、

 


どうせパチンとひび割れて
みんな夢のように消え去って
ずっと深い闇が広がっていくんだよ

 

となっていますが、ここなんか、まさに”死”の表現ですよね。”どうせ”という言葉が使われていますが、”死”とは、誰しもに平等に訪れるもので、それに対する、半ば諦めの気持ちというか、もしくは妙に達観しているような、そういう気持ちが現れているような気がします。

 


あとは、サビの”タマシイころがせ チィパ チィパ チィパチィパ”とかですね。

 

”タマシイ(魂)”とは、本来は神々しくて尊いものであるにも関わらず、ころがせとか、チィパチィパとかね、何かそんなに重く捉えていないような、軽くあしらっているような感じを受けます。”チィパ チィパ”って何だよって話ですよね、笑。

 


■きっと、誰しもに、”死”を思い出させるような出来事ってあると思うんですよ。身内や大事な人を亡くなってしまったこととか、会ったこともないけど自分が好きだった有名な方が亡くなったこととか。あるいは、自分自身が、大病や大けがをして、死に近づいた経験がある、とかね。色々あると思います。

 


僕なりにこの曲を聴いて、思い出す”死”の記憶があります。いくつかあるんですけど、この曲を聴いて真っ先に思い出したのは、”寝ずの番”というものでした。知ってますかね、寝ずの番。

 

 

現在の日本では通常、人が死ぬと、通夜(死んだ人と過ごす最後の夜)があって、その次の日に葬式(親族や身内が故人に最後の別れを告げる儀式)があるわけですが、その通夜の夜に行われるのが”寝ずの番”というものです。

 

”寝ず…”という言葉が付いていますが、元々は夜を通して本当に寝ないで、線香を絶やさぬように、死んだ人の側に居る、という風習だったらしいですが、今はそんなに絶対的なものではなくなっているそうです。普通に眠りはするけど、遺体が安置されている空間で一緒に一晩を共に過ごす、ということで、別れを惜しむ気持ちを表す、というのが現在の”寝ずの番”というものになっているそうです…というか、僕自身が体験したのは、そういう感じでした。

 


■僕は、父親を高校の時に失くしています。その時は、自宅に父親の亡骸を持って帰って、一緒の部屋で並んで寝ました。それも、”寝ずの番”の一種だったと思います。

 

そして、こういう言い方は変かもしれませんが、一番印象に残っている”寝ずの番”が、最近…と言っても、4年前くらいかな、祖母が亡くなったときのです。何か特別なことが起こったわけではないんですけど、何か印象に残っているんです。

 

その時は、確か祖母は亡くなって、お寺に運ばれたんです。だから、通夜はお寺で行われました。それで、供養などが色々一段落したあと、数名がお寺に残って、”寝ずの番”をすることになったのです。それで、僕と、親戚の兄ちゃんと、その兄ちゃんの子ども(当時、小学中学年くらいだったでしょうか)が残ったのです。

 

子どもなんかは、無邪気なもので、お友達の家にお泊りに行くような感じだったでしょう。一緒に遊んだりして過ごしました。その子どもも眠ってしまい、親戚の兄ちゃんと仕事の話などをしたりして過ごしたりして、もういい加減俺も眠るかな、とか思ってたら、もう深夜1時くらいになった頃、他県にいる実兄が”寝ずの番”に参加するためにお寺に駆けつけ、ビールで献杯を行ったりしたんです。

 


何か、そこで改めて、時間の流れ、なんていうのを感じたんです。それは、人が死んでしまった、という事実からはもちろんですが、親戚の兄ちゃんと仕事の話をしたこととか(その時にやっていた仕事は、僕の方はすでに辞めてしまっているけどね、笑)、その兄ちゃんの子どもと遊んだりしたこととか、実兄が駆けつけて一緒にお酒を飲み交わしたこととか、何かすごい印象的な夜だったことは、よく覚えています。まさに、”死”と”生”を、同時に感じることができた夜だったと思い出します。

 


■ということで、脱線しまくりですね、たまにはこんなのも良いんじゃないすか。

 

”おまえの最期を見てやる 柔らかな毛布にくるまって”という表現が、まさに”寝ずの番”っぽいなぁ、というわけで、この曲を久しぶりに今回聴いてみて、上述のようなことを、一気に思い出していました。

 

きっと、この曲を聴いて、思い出すことは、人によって違うんでしょうね。