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256時限目:手鞠

ひみつスタジオ (初回限定盤)(SHM-CD+DVD)

 

手鞠

手鞠

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【手鞠】

 

■アルバム『ひみつスタジオ』の7曲目に収録されている曲です。

 

【花と虫】とか【春の歌】みたいな…こういうのを16ビートというんですかね…跳ねるような軽快なテンポがクセになる曲です。

 

タイトルの”手鞠(てまり)”という言葉といい、サビでずばり”可愛いね手鞠”と歌っちゃっているところといい、かわいらしさを感じる曲ではあるんですけど、それとは裏腹に歌詞は割とドキッとさせられるようなことも歌っていて、個人的にはそういうギャップが一番印象に残った曲でもありました。

 


■その”かわいい”という言葉についてですが、この曲や、ひいてはアルバム『ひみつスタジオ』という作品について、キーワードとなっている言葉の一つだと思います。現に、書籍「スピッツ2」の中で草野さんは、このように語っています。

 


草野さん「(前略)でも今は時代も変わって、世の中が結構スピッツ化してきてるなと思うんですよ。俺としては、昔から出したいなと思ってたものを、思いっきり出せるようになってきた!と。だから、ちょっと気持ち悪いって言われてもいいから、かわいいものとかを入れていこうってのは、ここ10年ぐらい思ってますね。」

 

余談ですが、自分の職場の人にも、いかにも”おっさん”って感じの人でも、パソコンの壁紙がかわいいキャラクターだったり、かわいいキャラクターのハンコを使っていたり、デスクの上に”ちいかわ”のフィギュアが飾られていたり、ポケモンが好きだったり…多少無理矢理ですが、草野さんが話していることと繋がるのかな、と思ったりしました。

 

草野さんが言っている”10年ぐらい”で(いや、もっと昔からかもしれませんが)、ネットやスマホの存在が大きくなり、アニメだったりアイドルだったりキャラクターだったり…そういうカルチャーとの距離が、一般人の我々とも近くなってきましたよね。それも、年齢や性別を問わず、誰でもアクセスできるようになりました。

 

僕が若い時は、こんな時代が来ることなんて、想像だにしませんでしたが、そういう事も相まって、”かわいい”というカルチャーは、広がっていたのだと思います。

 


■さらに、スピッツと”かわいい”についてですが、僕自身これはずっと思ってきたのは、スピッツって、何と”かわいい”と”かっこいい”をうまく同時に表現できるバンドだな!ってことでした。それは、何も最近ではなく、古い時代から感じていたことでした。

 

曲でいうと、挙げ出すとキリがないですが…例えば、【優しいあの子】【子グマ!子グマ”】【潮騒ちゃん】【花の写真】【桃】【ありふれた人生】【ミカンズのテーマ】…各アルバムから1曲ずつ挙げようとしましたが止めました。

 

挙げた曲は、ほんの一部だと思うんですけど、”かわいい”けど、でもどの曲も”かっこいい”ですよね。”かわいい”と”かっこいい”を同時に表現できるって、ほんとスピッツ唯一無二だよなぁって思うんです。

 


■かなり脱線しましたが…【手鞠】の話に戻します、すんません。

 

それで、この曲は2人の人物が描かれているように読めます。1人はこの歌において”自分”と表現されている人物、もう1人は”君”という人物です。

 

まずは、前者の方…特に一人称があるわけではないので、仮に”僕”としておきます。”僕”という人物は、どういう人物像なのでしょうか。実際に、”僕”の状況や心境を表していると思われる歌詞を抜き出してみると…

 


自分を探す旅の帰りに 独りが苦手と気づいて
手に入るはずだった未来より 素朴な今にありついた

 


常識を保つ細いロープで 体のあちこち傷ついて
感動の空気から逃れた日 群れに馴染めないと悟った
誰のことももう愛せないとか 決めつけていたのかも

 

などなど。色々想像できるんですけど、例えば”常識を保つ細いロープ”という表現…常識に縛られていたということでしょうか。別に悪い意味ではないですけど、世の中の常識というか、”こうでなければならない”という考え方や行動原理に縛られて、これまで生きてきたというような人物像が思い浮かびます。

 

そこから、”感動の空気から逃れた”とか”群れに馴染めない”とか”誰のことも愛せない”とか…マイナスとも取れるような表現が並んでいますが、何となく人と距離を置いているような性格も伺えます。

 

そういう”僕”ですが、”手に入るはずだった未来”より”素朴な今にありついた”ということで、つまりは人生を長い目で見ることを止めて、目先のことを考えるようになったと…何かきっかけがあってのことなのでしょうか。

 


■では、”君”という人物についてはどうでしょうか。

 

曲のタイトルにもなっている”手鞠”という言葉を使って、”僕”は”君”に呼びかけているように感じます。

 


可愛いね手鞠 新しい世界
弾むように踊る 君を見てる

 


可笑しいね手鞠 変わりそうな願い
自由きままに舞う 君を見てる

 

”手鞠”というと、要は”鞠(まり)”のことですよね。”鞠”というと、社会の教科書で見た、貴族が着物の裾を手でまくり上げて、鞠を蹴り合っている”蹴鞠”をしてる、平安時代か何かの挿絵が一番記憶に残っています。

 

蹴って遊んだり、子どもたちであれば地面について遊んだりしますかね。今の時代で言うところの、ボールのようなものでしょうか。

 

”鞠”はともかく、ボールであれば誰しもが触ったことがあるでしょう、壁に投げて当たったり、地面や体育館の床に当たったりすると、色んな方向に跳ねていきますよね。そういう特徴を、”君”という人物にそのまま当てはめて、つまりは”手鞠”=”君”という関係にあるかと思うのですが、とすると、”僕”と”手鞠さん”は対比して描かれているように読めてきます。

 


■”僕”は、先程の説明から”何かに縛られている”ような人物でしたが、一方の手鞠さんはというと、”自由”だったり”舞う”や”踊る”と言った言葉から、何かに縛られているというのとは対極にあるような、歌詞通り”自由気まま”な性格の人物だという印象を受けます。

 

そういう、自分とは対極に”自由”に生きているように見える手鞠さんとの出会いにより、手鞠さんに恋愛感情を抱いたのかもしれないし(”好きだよ手鞠”という表現から、そう考えるのが自然でしょうか)、そうではなかったとしても、もっと自由に生きても良いんだ!何かに縛られながら窮屈に生きなくても良いんだ!と、”僕”は救われたのかもしれません。

 

そういう手鞠さんとの出会いによる、”僕”の心境の変化としては、最初の方では、

 


手に入るはずだった未来より
素朴な今にありついた

 

と歌われていたのが、

 


かなり思ってたんと違うけど
面白き今にありついた

 

と変わっているところからも、前者は、未来を諦めて、しょうがなく今にありついたという印象を受けるところから、後者は、そういう今も別に面白いじゃん!っていう風に、前向きに考えることができるようになっています。

 


■あるいは、これらの解釈を少しひねくれて考えてみますと…

 

実は、この曲を聴いて歌詞を読んだときに、ちょっとイヤーンだなぁって思った節もありました(今でもそうですが…)。その所以というのが、”弾む”とか”舞う”という言葉でした。

 

スピッツの曲の中で、”跳ねる”とか”弾む”という言葉って、割とイヤーンな表現だと思ってます。

 


こんな気持ちを抱えたまんまでも何故か僕たちは
ウサギみたいに弾んで

 


こっそり二人 裸で跳ねる
明日はきっとアレに届いてる

 

2曲しか思い浮かびませんでしたが…ほとんど後者の歌詞に引っ張られ過ぎているところもありますが…”跳ねる”とか”弾む”とかは、SEXの行為中を表した言葉にも感じます。

 

とすると、この”手鞠”という言葉にも、そういう行為中の女性の姿が思い浮かんできます。

 

さらに言うと、先程紹介した”手に入るはずだった未来より 素朴な今にありついた”や”かなり思ってたんと違うけど 面白き今にありついた”という表現…”未来”を追い求めるのを止めて”今”を選んだと…

 

そして

 


好きだよ手鞠 清らかなせせらぎ
バレバレの嘘に笑う 君を見てる

 

ここの”バレバレの嘘”という表現とかも気になるところではあったんですけど…例えば、長く付き合っていた女性との未来より、それとは違う手鞠さんを選んで”弾んでいる”んじゃないかとか、男性を相手にするお仕事をしている手鞠さんと”弾んでいる”という解釈もできるかもしれません。